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猫背から生首まで
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 小学二年生の冬、父が死んだ。夜の十二時をまわっていたが、当時から寝つきが悪くほとんど眠ることをしなかった私は、母と弟の七瀬の隣で横になっていた。七瀬はまだ一歳にも満たない赤ちゃんだった。ぐにぐにと唇を動かしながら母のおっぱいを幸せそうに飲んでいた。受話器を置いたあと、何も言わずに母が手を洗いにいったことをよく覚えている。母は軽度の強迫神経症で、精神的に不安定になると指の先から二の腕まで丁寧に洗わないと気が済まない人だった。目の前からおっぱいが消えたショックで七瀬は泣き叫んでいたけれど、私にはそれをどうすることも出来ず、ただ「なかよし」という漫画雑誌を読んでいた。母は三十分経っても四十分経っても洗面所から出て来なかった。七瀬はそのうち諦めて寝てしまった。いつまでも部屋の中に水の音が響いていた。母が洗面所から帰ってきた時にはほんのりと眠気が降りてきていたけれど、母の顔を見てまた目が冴えてしまった。母は、真っ青な顔に真っ赤な目を二つくっつけて、引き攣った笑いを浮かべていた。その顔を見た私には恐怖しか湧かなかった。
「まぁちゃん、お父様はもう帰ってこないわよ」
 母は、私の目を見ずに言った。顔はこちらを向いていても、目線は私の頭をすり抜けてずっとずっと遠くにあった。母の手は赤を通り越して紫色に変色していた。私はうなずくことしか出来なかった。
 二日後に通夜が、三日後に父の葬式が行われた。父は当時五十二歳で、名前も知らないどこかの飲み屋のオネーチャンとセックスしている最中に死んだ。心筋梗塞だったか、脳梗塞だったか、どっちにしろあっという間に死んでしまって、父と繋がっていたオネーチャンはさぞかしびっくりしただろう。母はオネーチャンとお話したいと言っていた。大事な人の最後を看取ってくれた人だからお礼を言いたいと。馬鹿げている、と思ったけれど、私は何も言わなかった。小学生の娘が止めたところで母は聞かないだろう。
 父の浮気は日常茶飯事で、家に帰ってくることもほとんどなかった。棺に入った父の顔を見るまで、私は父の顔を思い出せなかった。目を閉じた薄紫色の顔を見て、あーあなたでしたか! と納得した。七瀬が生まれてからは多分十日も帰っていない。死ぬ前に父の頭には誰の顔が浮かんだんだろう。やっぱり飲み屋のオネーチャンだろうか。
 父にとって母は三人目の奥さんで、一人目と二人目の奥さんの間にそれぞれ息子が一人ずついた。二十六歳のたろうくん、十九歳のひろむくん。昔の奥さんは葬式には来なかったけれど、たろうくんとひろむくんは来てくれた。このとき私は初めて二人の兄に会った。たろうくんの目と、ひろむくんの声は父にそっくりだった。二人は私を見るなり
「うわー、やっぱ似てるわー」
 と笑った。具体的にどこが似てるかは教えてくれなかったけれど、日ごろから母に
「まぁちゃんはお父様にそっくりね」
 と言われていたので、そのことを指摘されたのだろう。たろうくんとひろむくんは喪主で忙しい母の代わりに七瀬の面倒をよく見てくれた。人見知りが激しかった私は三人の輪の中に入って行けず、斎場の控室の隅っこに正座して家から持って来た「なかよし」を読んでいた。何度も何度も読み返したたためにほとんどの漫画のセリフを暗記してしまい、その分学校で習った九九を思い出せなくなってしまった。時々たろうくんとひろむくんのどちらかがそばに来て何かを話してくれたけれど、口からは漫画のセリフしか出て来なかったために変な顔をされた。
「まぁちゃん、お腹すいてない?」
「この紋章のためにあなたは自らの命を神に捧げることが出来ると申すのですか!」
 そのうちたろうくんもひろむくんも黙って私のそばにおせんべいやらいなりずしやら都こんぶやらを置いて行くようになった。七瀬はすっかり二人に懐き、母のおっぱいのことなど忘れてしまっていたようだった。
 父はよくわからない宗教の幹部だったらしく、葬式には物凄くたくさんの人が訪れた。その人たちは皆七瀬を見て
「これがあの…」
 とばかり呟いていた。あの何なのかは聞き取れなかった。聞こえていたのかもしれないけれど、私の頭の中は漫画のセリフでいっぱいだったので聞いたそばからこぼれ落ちてしまっていた。母はそのたびに深々と頭を下げた。父が死んだ日から目はずっと遠くを見たままだった。
 葬式のあと、大人はみんな火葬場に行ってしまった。私と七瀬とひろむくんは「成人していないから」という理由で斎場に残されてしまった。「子どもが見るもんじゃない」と知らないおじさんが言っていたので、よほど何かすごいことをするのだと思った。豚の丸焼きならぬ父の丸焼きにして、その肉をみんなで少しずつ分け合うとか。よくわからない宗教の幹部だし、きっとそれくらいのことはするのだろう。
 控室に敷かれた畳の上で七瀬は寝てしまったので、私とひろむくんはとても気まずい雰囲気になった。なかよしを読もうと思ったけれど、何度も読み返したあまりぼろぼろになってしまっていたため、母が捨ててしまったようだった。私はひろむくんの顔を初めてちゃんと見てみた。母親に似たのだろうか、父にはあまり似ていない気がした。ひろむくんの髪の毛は金色で、根本が黒かった。
「その髪の毛、染めてるんですか?」
 初めてまともに私が言葉を発したせいか、ひろむくんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「染めてる、っていうか、抜いてる」
 抜いてる? 私の頭の中に髪の毛をぶちぶちと抜き続けるひろむくんの姿が浮かんだため、笑いが込み上げてきていきなり噴き出してしまった。それを見たひろむくんは、一瞬間を置いて笑った。二人でけたけたと笑っているうちに日が暮れ、母とたろうくんが斎場に帰ってきた。七瀬はまだ寝ていた。七瀬の寝顔と父の死に顔はそっくりだなあと思った。それをひろむくんに伝えると、またけたけた笑った。
「まぁちゃん、お兄ちゃんにありがとう言って。帰るわよ」
 母にそう促され、たろうくんとひろむくんに礼を言おうとしたが「ありがとう」の五文字が出て来ず、結局「ごちそうさまでした」と言ってその日は別れた。たろうくんもひろむくんも笑っていた。七瀬は家に帰ってもそのまま眠り続け、翌朝まで起きなかった。母の目は時々こちらを向くようになった。私はまた九九を覚え始めた。


つづく

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原発牛乳
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39
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
おかあさん
趣味:
おひるね
自己紹介:
かわいい女の子の写真を撮ったり行き過ぎた妄想を小説にしたりしています。
名前はアレだけど別にこわい人じゃないです。
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