猫背から生首まで
「まぐろちゃんの自殺教習」
地下鉄がホームに入って来る風で思わずよろけてしまうほどに私の命は軽い。よろけた瞬間、背後に立っていたトイレの芳香剤のような香水のにおいを振りまいた和服のおばちゃんに舌打ちをされ、今日も私のHPは削られていく。ごめんなさい。その声はきっと彼女には届いていないのだろう。私を押し退けるようにして地下鉄の車両に乗り込み、空いている席を目掛けて突き進んでいく。目の前でドアが閉まる。あっ、と声を出す間もなく電車は動き出す。ホームに取り残された私は、次の電車をまた待つことにする。
ホームにはすぐに人が集まってくる。次に私の後ろに並んだのは、四角い大きなボストンバッグを持った男子高校生。汗と制汗剤の混ざったにおい。イヤフォンから漏れる一定のリズム。携帯電話の画面を見つめたその顔には、いくつかの赤いにきびがある。正面を向き直し次の電車を待つ。
今日で何日目になるのだろう。私は毎日この駅のホームに立ち、同じ時間、同じ場所で飛ぶ瞬間を待っている。その気になればいつだって飛べる。次は。次こそは。ここから飛ぶことを強く念じる。次こそは飛ぶ。飛んでやる。そう考えてもう何日も経ってしまった。頭の中では何度も飛んだ。繰り返しシミュレートすることで、なぜか飛ぶタイミングはどんどん遠くなっていった。頭の中では何人もの私が死に、ばらばらになってホームを赤く染めた。首が、腕が、足が、頭が、傷付き吹き飛ばされてゆるやかに時間が止まる。着地した時点でアウト。私はもうそこには存在しない。そこにあるのは肉の塊だ。
また地下鉄がホームに入ってくる。私は目を閉じる。今だ! 飛べ! しかし私の両足は、見えない何かに掴まれたようにその場から動くことが出来ない。また飛べなかった。また死ねなかった。また自由になれなかった。また生きてしまった。
「乗らないんですか?」
男子高校生が低い声で聞く。
「あ、乗ります。すみません」
彼の言葉で足が動くようになった。でも私が向かう先は線路の上ではなく車両の中だ。いいや、明日飛ぼう。明日が駄目だったら明後日飛ぼう。いつだって飛べる。その気になればきっと。
向かいの席に座った男子高校生は床にボストンバッグを置き、腕を組んで目を閉じている。終点まで行くのだろうか。浅黒く焼けた肌には、ところどころかすり傷がある。
私が女子高生だった頃、彼のような男子は周りにたくさんいた。適度に部活に励み、それなりに勉強をして、たまに彼女を作ったり別れたりする。制汗剤のにおいと青いあぶらとり紙。日に焼けた肌、短く刈った黒い髪の毛。あれから十年近く経った今、彼らのような男の子たちは私の周りにいなくなってしまった。当たり前だ。みんな大人になってしまったのだから。似た色のスーツに身を包み、髪の毛は少しだけ伸ばして、黒かった肌の色はくすみ、低い声は私の知らない単語を発する。
みんな大人になってしまった。みんないなくなってしまった。私はまだあのころのままだ。大人になれないままオトナになってしまった。置いてけぼりにされたまま、地下鉄のホームであのころに戻れる日を待っている。
「終点ですよ」
目を開けると男子高校生が立っていた。
「あ、はい、すみません」
私は慌てて荷物をまとめ、立ち上がる。彼は表情を変えないまま、私を見ている。
私が電車から降りても、男子高校生はその場に立ち尽くしたままだった。次の電車が出るまでには少し時間に余裕がある。終点まで来たところで私にはどこにも行くところはなく、この駅にいても入ってくる電車に飛び込むことは出来ない。
もう一度電車の中に乗り込み座ると、彼は私のとなりに座った。何か話すべきかと思ったが、何を話せば良いのか分からなかったので口を開くことをやめた。彼はまた腕を組んで目を閉じている。
何人かが乗り込んできて、発車の時刻になった。ゆっくりと時間をかけてドアが閉まり、ごっとん、という音に合わせて地下鉄は動き出す。私は目を閉じてあの駅のホームに立つところを想像する。汗と制汗剤の混ざったにおいが鼻をかすめた。あのころのことを思い出す。そうするとまたもう一人私が死んで、今日も生身の私は生きてしまっている。
タイトルと全く関係ない内容になってしまった!
次週、「猫背ちゃんと猫背くん」に続く!
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原発牛乳
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1984/09/21
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かわいい女の子の写真を撮ったり行き過ぎた妄想を小説にしたりしています。
名前はアレだけど別にこわい人じゃないです。
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